高度成長期の経済と社会

経済の高度成長

 1955〜73年の20年近くの間、日本経済は成長率が年平均10%をこえる高度成長を続け、国民総生産(GNP)は、資本主義国ではアメリカにつぐ第2位の規模(1968年)に達した。
鉄鋼・造船・自動車・電気機械・化学などの部門が、アメリカなどの技術革新の成果を取り入れて設備を更新し、石油化学・合成繊維などの新部門も急速に発達した。
この過程で、日本経済に占める第一次産業の比重が下がって、第二次・第三次産業の地位が高まって、工業生産額の3分の2を占めるにいたった。また、石炭から石油へのエネルギーの転換が急速に進んだ。
生産の急速な増大をうけとめたのは、国民市場と輸出の拡大であった。まず、民間企業の設備投資ブームは、「投資が投資をよぶ」という仕方で膨大な需要をつくりだした。また所得水準の全般的上昇が、工業製品の市場を大幅に拡大した。労働者の賃金は若年層を中心とする労働者不足と労働運動の展開により上昇を続けた。
農業では1961年に農業基本法が制定されて農業の構造改革がはかられ、化学肥料・農薬・農業機械の普及によって生産力が高まり、農協の力もあって食糧管理制度の下で米価が政策的に引き上げられるいっぽう、農家の農業外所得の増加傾向が続いた。
 輸出も、円の割安な固定相場と海外からの安価な資源の輸入とにささえられて急速に拡大し、1960年代後半以降は大幅な貿易黒字が続いた。輸出では鉄鋼・船舶・自動車などの重化学工業製品が中心になり、輸入では石油や重化学工業原材料の比重が高まった。
日本は、欧米諸国の要求に応じて、貿易の自由化(1960年)、為替と資本の自由化(1964年)を実施したので、開放経済体制のもとでの国際競争の激化にそなえて三業界再編の動きがあらわれた。
三菱重工の再合併(1964年)や新日本製鉄の創立(1970年)など、大型企業合併がつぎつぎと行われた。また、さまざまな業種にわたる多数の大企業が、旧財閥系などの銀行・商社を中心に巨大な企業集団を形成した。

消費革命

 経済の高度成長は、国民の生活様式と意識を大きく変容させた。とくに農村の変化は激しかった。太平洋ベルト地帯にむけて大量の農業人口が流出し、おもな稼ぎ手が農業以外で働く兼業農家が増加した。
1955年に就業人口に占める農業人口の比重は4割強であったが、1970年には2割を割り込んでいた。また、耕転機・小型トラクターや家電製品が普及して、農耕の機械化と農村生活の近代化が進むいっぽう、過疎化の進行が農村の共同社会としての機能を衰弱させた。
また米をわずかな例外として、日本の食糧自給率は急激に低下した。
一方、大量の人口が流入した大都会では、過密が深刻化した。交通渋滞や騒音・大気汚染が生じ、住宅・病院は不足した。住宅地は都心から郊外にむけて無秩序に広がり、大都会の周辺部には「核家族」の住む高層アパート群がひしめくようになった。都市生活者にとっては住宅事情こそ厳しかったが、家電製品など耐久消費財の普及率は驚異的な上昇をとげた(消費革命)。
まず、1950年代後半以降にテレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫(「三種の神器」)が爆発的に普及し、1960年代末以降は自家用車・カラーテレビ・クーラー(「3C」、新三種の神器)がこれにとってかわった。食生活も豊かになり、肉類や乳製品などが普及したこともあって、日本人の体格はいちじるしく向上した。
米食が減退するとともに食生活の洋風化が進み、インスタント食品・冷凍食品が普及し、外食産業も発達してきた。食品産業は量産できる規格化した食品を、スーパーマーケットやコンビニエンスストアなどに供給するようになった。
 国土開発も本格化し、地域格差の是正をうたった1962年の新産業都市建設促進法にもとづき、指定区域の産業開発が進められてきた。

発展の裏に・・・

 民間航空の復興・発展、鉄道の電化、高速自動車道路網の整備もめざましく進められ、1965年に名神高速道路が開通し、東名高速道路、中国・東北各自動車道などがつぎつぎに建設されていった。
東海道新幹線に続いて、山陽、東北・上越と新幹線が建設され、また、1988年には青函トンネルと瀬戸大橋の開通で、北海道・本州・九州・四国が陸路で結ばれた。さらに、新東京国際空港、関西国際空港が開港して、国際化時代を促進していった。
生活のゆとりは余暇の楽しみへの欲求を生み出し、レジャー産業やマスメディアが発達した。新聞・雑誌・テレビなどのマスメディアは、大衆文化のおもな舞台となるとともに、大量の広告(CM)を送り出して人々の購買欲をあおった。また、「教育熱」の高揚を背景に、高校・大学への進学率が高まった。
マスメディアの発達と教育の普及により、大量の情報が伝達されたことは、日本人の考え方や知識を画一化する作用をも果たした。
このように高度成長の過程で所得・消費水準の上昇・生活様式・意識の変化が進むと、自分は社会の中間階層に属していると考える人びとが国民の8〜9割を占めるようになった(中流意識)。この間、少産少死の傾向が進んで、高齢化社会の時代が近づいてきた。
一方、高度成長の達成の裏面には、深刻な問題群も生み出されていた。交通事故が急増して、年々の事故死者数は1万人を前後するようになった。公害問題の深刻さも明らかになり、企業が汚染物質を長期間垂れ流して環境を破壊した。
1960年代の後半に、公害病に苦しむ被害者の抗議の声が組織化されて公害反対の世論と運動が巻き起こり、四台公害訴訟である阿賀野川水銀中毒・四日市喘息・富山イタイイタイ病・熊本水俣病の被害をめぐる訴訟がぞくぞくと提出された。
ようやく政府の公害対策も進展し始め、1967年に公害対策基本法が制定され、1971年には環境庁が発足した。
1973年には四大公害裁判は、いずれも被害者側の勝訴に終わった。その後、政府や企業の努力で公害対策は成功をおさめつつあるが、さらに世界的な開発が引き起こしてきた地球規模の問題として、地球温暖化や生態系破壊などが深刻に認識されるようになってきた。
 高度成長のひずみへの住民の反発は、1960年代以降になると大都市に革新自治体を成立させた。1967年に美濃部亮吉が東京都知事に当選したのをはじめ、1970年代はじめには三大都市圏(東京・京都・大阪)の知事と、多くの大都市の市長が選挙で革新系に占められた(革新首長)。
これらの革新自治体は、厳しい公害規制条例の制定や老人医療の無料化など福祉政策に成果を上げた。

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